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プロジェクトは破綻する。

仕事のこととか、salesforceのこととか、書評とか書いてます

【24日目】転職をきっかけにエンジニア半生を振り返ってみる(1)






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いまの会社を辞めることになった。

東京を離れて、地方に移住することに決めたのだ。

あっしのキャリアにまたひとつ、新たな経歴が刻まれようとしている。

 

エンジニアとして20年近く生きてきたあっしが、これまでどういう環境で過ごし、どういう技術で腕を鳴らし、どういう扱いを受けて、どういうスタンスで乗り越えてきたか、語ってみる。

 

レポート提出がhtmlだった大学時代(1995~1999)

あっしがはじめてITに触れたのは大学の頃だ。

情報系の学部で、情報工学を専攻していた。

でも興味があって入ったわけではなく、そこで取得できる数学の教員免許が目的だった。

だからIT知識はゼロの状態で入学していて、大学では落ちこぼれた。

留年もした。

 

あまり身にならなかった大学時代だけど、当時一般には普及していなかったコンピュータを強制的に使わされたので、そこで基本的なことを学べたのは大きかった。

そのコンピュータは、ワークステーションと呼ばれていた。

osはunix

ブラウザはnetscape navigator

文書作成はLaTeX

レポート提出は、そのLaTeXで作成するのがデフォルトだった。

 

あっしはunixがわからなくて、結局まったく使えなかったけど、課題の大半はレポートをコピーさせてもらって乗り切った。

大学5年間で覚えたコマンドは、ls、cd、そしてcpのみだ。

 

レポートはhtmlで出せ、という教授もいた。

LaTeXは難しかったけど、htmlは楽しかった。

大学のサーバにホームページを公開できる領域を与えられていたので、好きなページを作って遊んだりした。

 

macを使う授業ではメールを教えられ、先生が聞きたいことがあれば直接メールでもいいと言っていた。

これで海外の友人と連絡を取り合っているんだ、とうれしそうに語っていた。

当時は、eメールという言い方をしていた。

 

世間ではwindows95、98の時代。

さらに携帯電話が本格的に普及しようとしていた時期でもある。

友達にはpcにめっちゃ詳しいやつがいたので、普段の会話もそんな話ばかりしていた。

あっしの大学時代は、いやがおうにもITにまみれた。

このときをIT調教時代と呼んでいる。

 

で、大学を卒業する頃にはこんな人になっていた。

  • windowsmacをそれなりに使えるようになった
  • htmlでコーディングできるようになった
  • pcにメモリを増設できるようになった
  • モデムでプロバイダに接続して家でネットできるようになった

 

今見るとかなりしょぼいが、当時は普通に生活していたらまず身につかない。

cも習ったけど、ポインタで躓いて挫折。

javaはまだ授業になかったけど、友達が研修室で遊んでいたのを覚えているぐらい。

あとサークルが音楽系だったので、DTMもやっていた。

 

こうやって並べてみると、ずいぶんと調教されたもんだ。

 

サイト構築にあけくれたニート時代(2000~2001)

不真面目な学生だったあっしは、結局大学で教員免許を取得できなかった。

教師になるつもりだったから、行く先を見失って、実家に戻った。

就職する気力がなかったので、自分の部屋でただひたすらhtmlを書いていた。

サイト構築にはまったのだ。

 

この時期のあっしはこんな人だった。

  • 秀丸FFFTP、画像編集ソフトを使ってサイトを構築、運営
  • 実家にISDN回線をひいた。回線使用料が定額になって大喜び
  • perlが使えるようになった。ネットからフリーの掲示板cgiを取ってきて設置して改造したり独自の日記システムを作った
  • パソコンインストラクターのバイトをやり、wordやexcelの標準的な使い方を覚えた
  • はじめてpcを組み立てた。バイトの知り合いがpc欲しいと言うので、1回やってみたいと思い、他人の金で経験をつむ

 

この頃はネットの目覚しい普及を実感した。

あっしのようなIT廃人みたいな人だけじゃなく、pcを使い出した一般の若者がネットの世界に入ってきた。

あっしのサイトにも遊びに来てくれる人がいて、はじめてネット上の交流を経験した。

icqとかhotmailアカウントつかったやつとか、当時のインスタントメッセンジャーでもやり取りするようになった。

 

それがどんどん盛り上がって、ついにはリアルの交流に発展した。

オフ会の開催である。

この頃の話をすると、本当に終わらないのでまた次の機会に。

 

技術で食えることを実感した会社1社目(2002~2003)

ある事情でサイトの運営を辞めることになり、そろそろ働こうかと思って仕事を探し出した。

yahooの求人ページを見ていたら、perlが使えるプログラマを紹介予定派遣で募集していたので応募。

社長面接のみで、即採用された。

イベント企画会社だった。

 

そこでは、当時隆盛を誇っていたモバイル向けコンテンツの保守開発をやった。

以前ひとりだけプログラマがいたそうが、1ヶ月前に辞めてしまって、いまは誰もわからない状態になっているらしい。

あっしはそこで実際にビジネスで運用されているソースをはじめて見ることになる。

 

最初は苦労した。

見たこともない処理ばかりだった。

前任者はもういないし、他の人は全員イベント系の仕事なので、技術のことは誰もわからない。

相談できる人はいなかった。 

 

逆に、みんな技術のことがわからないので、仕事に口を出されることもなかった。

放置に近い状態だったが、自分で勝手に調べて修正したりできたので、気は楽だった。

コンテンツ事業自体はずっと赤字だったけど、イベント事業が好調だったので、あっしが売上に直接絡むことはなかった。

言われたことをやって、新しいことは勝手にやってた、という感じ。

 

やってることは家に居た頃と変わらず、それでいてお金ももらえる。

こんなに楽なことはない!と、当時のあっしは思っていた。

 

という感じで、あっしは社会に出てプログラマとして働き出した。

このときのあっしはこんな感じの人。

  • イベント企画会社の唯一のエンジニア
  • 仕事はperlで構築した複数のモバイル(ガラケー)コンテンツの保守。課金システムもあり
  • phpのすごさに感動して、課金の絡まない一部コンテンツをphpでリプレース
  • データベースを知る。コンテンツのデータの保存先がファイルだったので、リプレースのタイミングでmysqlを導入
  • 自社サーバを構築。会社に眠っていたdellのマシンにred hat linuxを入れて、会社のホームページを移動

 

あっしとしては、自分がやりたかったことを会社の環境で実践できた貴重な期間だった。

本当に好き勝手にやっていたので、今思うと考えられないけど、エンジニアとしてやっていける!という自信がこのとき生まれた。

そして、もっと成長したい、と思うようになった。 

  

この仕事を通じて、会社に出入りする人と関わるようになり、そこであっしはSIerで働いている人と出会う。

あっしにとっては、同業の人との始めての出会い。

 

その人からウチの会社こない?と言ってくれたので、転職を決意することになる。 

その人の給料は、あっしの倍だった。

 それが決め手になった。

 

分量が長くなってきたので、記事を分けることにする。

続きは次回。